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YOSHI'sSOCCER Clinic サッカークリニック サッカー好きのみなさんを対象にトレーニング指導を行っています。
小学生〜大学生 ボールを止める、蹴るといった基本練習を中心に行います。
社会人など サッカーを趣味として楽しんだり、体力増進に使いたい社会・・・
ファミリー 最近新しくはじめたカテゴリーです。子供たちだけでなく保・・・
History ヒストリー

サッカーとの出会い 〜鹿島アントラーズ入団
はじめたきっかけ
 
僕は1969年7月14日、広島県で生まれました。三人兄弟の次男です。
サッカーをはじめたきっかけは、3歳上の兄が楽しそうにボールを蹴っているのを見たから。小学校に上がったばかりの1年生でしたが、すぐに同じチームに入れてもらいました。
チーム名を「大河FCスポーツ少年団」といいます。このチーム名にぴんときた人はかなりのサッカー通ですね。
Jリーグができる以前は広島県内で無敵を誇ったクラブチームで、先輩に木村和司さん(日産自動車サッカー部〜横浜マリノス)、後輩に田坂和昭(ベルマーレ平塚〜清水エスパルス〜セレッソ大阪)、森島寛晃(セレッソ大阪)など多くのJリーガーがいます。
大河FCには小学校〜中学校まで9年間在籍しました。
指導してくれたのは大河小学校で教員をされていた浜本敏勝先生です。
最初のころはひたすらボールを追いかけてばかりでしたが、浜本先生は海外のサッカー事情や選手の育成方法にも詳しくて、選手の将来を見据えながら個人の特性に合ったトレーニングを課してくれました。
基礎技術が身につくにつれてサッカーがいよいよ楽しくなった僕は、練習のない日もずっとボールを蹴っていました。仲間がいればパス交換をしたり、ゲームをします。もし仲間がいなくても、たった1人でボールを蹴る。それくらいサッカーに熱中していたのです。
 
小学生
小学校6年生のときには将来の目標を立てました。
「プロサッカー選手になる」というもので、これを紙に書いて壁に張り、毎日眺めていました。
当時の日本には社会人リーグしかなくて、プロ契約を結んでいる選手は1人もいませんでした。地元の先輩である木村和司さんが当時のプロサッカー選手登録制度『スペシャル・ライセンス・プレーヤー』の第1号選手となるのは、それから5年後の85年です。そんな時代ですから、「プロサッカー選手になる」と言っても、誰も本気にしてくれませんでした。僕だけが真剣にその思いを抱いていたのです。
 
プロサッカー選手になるという目標を掲げた翌年(81年)、僕はTV画面を通してはじめてジーコを見ました。南米選手権を制したフラメンゴ(ブラジル)の選手として来日し、欧州選手権の覇者リバプール(イングランド)と第2回トヨタカップで戦ったのです。
ヨーロッパの選手を手玉にとるジーコを見て、なんてうまい選手なんだろうと思いました。パスを出すジーコとそれを受け取る選手の呼吸が見事に合っていて、まるで糸でつながっているようでした。そのパスもまた手で投げているかのように丁寧で正確なのです。この大会でジーコはMVPを獲得しています。
さらに翌年(82年)にはスペインでワールドカップが開かれ、ジーコも“黄金のカルテット”の一角として出場しました。残念ながらブラジルは決勝トーナメント進出をかけたイタリアとの大一番に敗れてしまうのですが、大会を通じてのジーコのプレイから受けた感銘は生涯忘れることがないと思います。
 
中学生
中学を卒業した僕は静岡県にある東海第一高校(現・東海大学翔洋高校)に進学します。東海第一は大河FCと縁が深く、毎年2〜3人が選抜されてサッカー留学をしていたので、僕もぜひ行きたいと考えていたのです。
 
高校生
高校でも目先の1勝より、将来を考慮した適切な指導を受けることができました。大河FC〜東海第一と続く12年間は、サッカー選手としての僕の基礎を作った大切な時期だったといえるでしょう。
個性を伸ばす指導を受けながら、高校では、
・2年生/第65回全国高校選手権大会(86年)優勝(準優勝/国見高校)
・3年生/第66回全国高校選手権大会(87年)準優勝(優勝/国見高校)
という結果を残すことができました。
当時から静岡県勢の強さは全国に知れ渡っていましたが、65回大会は全国大会初出場ということもあってノーマークのような状態からすいすい勝ち抜くことができました。翌年はさすがにマークがきつくなって、どの試合も苦労したことを覚えています。
 
高校卒業後
高校卒業後の進路には、サッカークラブのある企業に就職して日本リーグでサッカーを続ける、進学して大学のサッカーリーグでプレイするという選択肢がありました。
その一方でジーコに強く憧れていた僕は、ブラジルなど海外のクラブチームでプロ選手としてプレイするという希望も抱いていました。
そこで僕はこう考えました。「大学に進学しよう。4年間のうちに何か新たな展望が開けるかもしれない」と。
ところが明治大学での4年間は、僕の人生の中で、なくてはならない階段の踊り場のようなものでした。1年生のときは30人ほどの部員が一緒に寮生活を送る中で洗濯や掃除、買出しといった雑事に加えてグラウンド整備までやらねばならず、ほとんど学校に行けなくなってしまったのです。2年生では毎日学校に行って朝から授業に出ましたが、今度はサッカーの練習ができません。
このままでよいのだろうか。そう考えていた3年生のとき、大きな転機が訪れました。
日本にプロサッカーリーグ(Jリーグ)ができることが決定したのです。
これからはプロサッカー選手になることだけを考えていけばよい。曇り空が一転して晴れ渡った気持ちのよい感覚でした。
4年生(91年)には鹿島アントラーズをはじめ数チームのトレーニングに参加しました。幸いにも複数のチームから誘いを受けましたが、僕はアントラーズに行くことを決めていました。なぜならそこには10年以上憧れ続けてきたジーコがいたからです。
小学校6年生のときに掲げた夢がいよいよ実現したのです。
 
鹿島アントラーズへ
鹿島アントラーズへの入団は92年です。
Jリーグの開幕を間近に控えた93年4月にチームはイタリア遠征合宿を行いました。
遠征では2試合の練習試合が組まれていました。
そこで僕らはプロサッカー選手とはどういうものかという真髄をイヤというほど体験することになるのです。

 


次回は ・Jリーグ初代チャンピオンの栄光〜清水エスパルスへの移籍
・海外クラブへの挑戦と挫折〜現在へ
 
 
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